豊臣秀長は、家康ら諸大名のゆるい連合体の上に秀吉を据える、地方分権の政治体制をめざしていた

豊臣秀吉は天下人になった。
だが、その瞬間から、秀吉の足元には、かすかな綻びが生じはじめた。
最初にきざした翳は、ここまで秀吉を裏方でささえてきた実弟、
--大和大納言秀長
の死であった。

秀長は、その温厚で誠実な人柄から諸大名の人望が篤かった。
ーー朴訥、仁義に厚き御仁。
と、『武功夜話』はしるしている。

豊臣秀長は、家康ら諸大名のゆるい連合体の上に秀吉を据える、地方分権の政治体制をめざしていた。
この秀長の考えに同調し、協力していたのが千利休であった。

この秀長、利休派に対して、豊臣政権にはもうひとつ、台頭いちじるしい派閥があった。
石田三成を筆頭とする、増田長盛、長束正家ら、近江国出身の若手奉行衆である。
彼らは、秀長派がとなえる地方分権とは対極の、秀吉をピラミッドの頂点とする強固な中央集権体制を築こうとしていた。

秀長の死から50日後、利休は堺の屋敷に蟄居が命じられ、自刃する

         『天下 家康伝』(火坂雅志)より

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