斎藤幸平氏の主張に感じる違和感

問題提起にはうなずくが、解決策には飛躍があるのではないか

斎藤幸平氏の話を聞いていると、たしかにその通りだと思うことが多い。
資本主義が格差を広げ、人々の生活を不安定にし、働くことの誇りさえ奪っている、という指摘には、私も強くうなずく。現代社会がどこか行き詰まり、息苦しくなっていることは、多くの人が感じていることだろう。

ただ、私は彼の主張を聞くたびに、どうしても引っかかるところがある。
それは、問題提起の鋭さに比べて、そこから導かれる解決策に、少し飛躍があるのではないか、という点だ。
斎藤幸平氏の議論で気になるのは、イーロン・マスクやピーター・ティールのような大富豪について、「彼らは資本主義の終わりを認め、生き延びるために必要な資源や知識や技術を独占していく。きわめて危険だ」とかなり強く言い切るところである。もちろん、危機の時代に富裕層が自己保身へ向かう可能性はあるだろう。しかし、それはあくまで一つの解釈であって、十分に立証された事実ではない。その解釈を足場にして、「だから現在の体制は危険であり、別の社会システムへ移行しなければならない」と進むなら、そこには大きな飛躍がある。問題は、資本主義批判の鋭さではなく、推測を事実のように扱い、それを政治的結論の土台にしてしまうところにある。
「彼らは独占していく」という断定は、分析というより解釈である。解釈を事実のように置き、その上に社会主義への議論を積み上げるなら、それは飛躍である。
さらに、問題提起の前に、自分が世界的知識人や国家指導者と接点を持つ人物であることを示し、発言の権威を先に固める点である。フランクフルト・ブックフェアでのハラリとの対談や、コロンビアのペトロ大統領との接触は事実としてありうる。しかし、それを冒頭で語ることは、主張の中身を支える証拠というより、自らの見解を受け入れやすくするための演出として機能する。私はそこに、内容以前に聞き手の判断の地盤を整えようとする危うさを見る。

斎藤氏は、資本主義の矛盾を語るとき、しばしばエリート層や支配層の自己保身を強く描く。もちろん、それは一面の真実だと思う。現実に、自分たちの地位や利益を守ることばかり考える上層の人々はいるだろう。

しかし、それだけを強調すると、社会の見え方が単純になりすぎる。
「悪いエリート」と「苦しむ民衆」という図式ができあがり、人々は自分の痛みに対して、怒りの向け先を与えられる。そこに、ある種の分かりやすさが生まれる。けれども、分かりやすい図式は、多くの場合、現実の複雑さを削り落としてしまう。

しかも斎藤氏は、それを感情的に怒鳴るような形ではなく、穏やかな笑顔と平明な言葉で語る。そこがまた、やっかいだと思う。激しい扇動ではないので、聞いている側は警戒しにくい。しかし実際には、聞き手の感情を静かに整えながら、自分の示す方向へ導いているようにも見える。

私がさらに気になるのは、その先に置かれる答えである。
資本主義の問題を批判することと、その代わりに国家による計画や社会主義的な方向を選ぶこととは、本来別の話のはずだ。ところが、斎藤氏の議論には、しばしばそこが滑らかにつながっているように見える。

だが歴史を振り返ると、社会主義や共産主義の体制は、たしかに決定や動員が速い反面、反対する者や遅れる者を切り捨てやすかった。ロシアでも中国でも、また独立後のアフリカの一部でも、理想や善意から始まった体制が、やがて重く硬い国家へ変わっていった例は少なくない。国家そのものが体制維持のために肥大化し、最後には欠乏と不信だけを残す。そんな歴史を見ていると、私はどうしても慎重にならざるをえない。

もう一つ、斎藤氏の議論には抜け落ちているものがあるように思う。
それは、エリート層の中にあった ノブレス・オブリージュ、つまり「高い地位や富には責任が伴う」という倫理である。

もちろん、すべてのエリートが高潔だったなどと言うつもりはない。そんなことはない。
けれども歴史の中では、上層の人々が文化や教育、科学、地域社会の継承を支えてきた面も確かにある。寄付や後援、パトロンとしての役割、あるいは社会に対する義務感によって支えられてきたものは少なくない。イギリスの貴族層にもそういう側面があったし、近代の大富豪たちの寄付や文化支援にも、そうした責務の意識が見えることがある。
パトロネージュが生んだ文化遺産

エリート層の文化的貢献は計り知れない。

音楽ではバッハはケーテン侯爵に、モーツァルトはザルツブルク大司教に、ベートーヴェンはロプコヴィッツ侯爵に庇護された。パトロンなしにあの作品群は生まれなかった。

科学ではダーウィンは裕福な家庭背景があったからこそビーグル号に乗れ進化論をまとめ上げることができた。メンデルは修道院という庇護された環境で遺伝の法則を発見した。また質量保存の法則を発見したのは、フランスの化学者で貴族のアントワーヌ・ラヴォアジエだった

建築・美術ではメディチ家なしにルネサンスはなく、カーネギーホールなしにニューヨークの音楽文化の水準はなかった。

ビル・ゲイツ財団のアフリカにおけるマラリア・ポリオ撲滅への貢献は、どんな国家計画経済も成し遂げられなかった規模と機動性を持っている。

もしエリートをただ「自己保身の主体」としてのみ描いてしまえば、社会の上層が担ってきたそうした役割まで見失うことになる。
そして、上層を一方的に破壊すれば、不平等だけでなく、文化や伝統の継承の器まで壊してしまう危険がある。ロシアや中国の歴史を見ていると、そのことを強く感じる。

では、希望はどこにあるのか。
私は最近、A.R.ホックシールド著の『盗まれた誇り』の中の一節に、少し救われるような思いがした。そこでは、プライド(pride)という言葉が、「役に立つ」という意味を表す語源につながっていることが紹介されていた。

この話はとても大事だと思う。
なぜなら、自己承認や誇りとは本来、誰かの上に立つことや、多くを所有することから生まれるのではなく、自分が誰かや共同体に役立っているという感覚から生まれるのではないか、と思うからだ。

もしそうなら、社会の再建に必要なのは、国家が上からすべてを計画し直すことではない。
人々がそれぞれの場で、互いに役立ち、支え合い、自分の存在に意味を感じられるような社会を取り戻すことではないだろうか。そこにこそ、もっと地に足のついた希望があるように思う。

私の斎藤幸平氏への違和感は、結局この一点に集約される。
彼は現代社会の病理を鋭く言い当てている。そこには学ぶべきものが多い。
けれども、その苦しみを「エリートへの怒り」に整理し、その先を国家的な計画や社会主義的な方向へ結びつけるところに、私はどうしても危うさを感じる。その先には、自由のない硬直した社会が待っているような気がする。

必要なのは、上からの全面的な救済ではない。
人が互いに役立つことで誇りを持てること。
そして、社会の上層にも責務を果たさせながら、文化や伝統を壊さずに次へ渡していくこと。
そういう、もっと遅くて、不器用だが、人間の手触りのある社会のほうに、私は希望を感じる。

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