グレゴリー・クラーク著『10万年の世界経済史』の第7章「技術進歩」に、「技術の退化」という節があり、次のような事例を挙げている。・タスマニア人が、祖先の持っていた骨製道具や漁業技術を失った・北極圏のイヌイットが、先祖のトゥーレ文化にあった大型海獣狩猟、恒久的住居、精巧な道具などの一部を失った・中国が1400年ごろまでは世界最高水準だったのに、大型外洋船、深い炭鉱、水時計などの技術を後に維持できなくなった 産業革命以前の社会では、技術は必ずしも積み上がる一方ではなく、長期間停滞したり、実際に後退したりすることがあった。そして、これほど社会制度や文化の違う世界各地で、なぜ技術進歩が一様に遅かったのかを「世界史上の大きな謎」としている。地域ごとに戦乱、疫病、人口減少、孤立、貿易統制、国家事業の停止など原因は違うが、いずれも「技術を維持する網」を細らせる点では共通している。産業革命以前は、技術を継続的に使い、改良し、広い地域で共有する仕組みが弱かったため、社会の網が少し切れるだけで、技術の蓄積が逆回転しやすかったのだと考えられる。退化したというより、「その土地と人口規模で暮らしを続けられるところまで、技術体系が縮んだ」のだと思う。タスマニアでは、島内で貝・アザラシ・陸上動物などを得られるなら、危険で手間のかかる外洋漁労技術や複雑な骨角器を維持しなくても生存できた。イヌイットの一部集団でも、カヤックや大型海獣狩猟の技術を失っても、海氷上の狩猟など別の方法で暮らせるなら、集団は存続できる。中国の場合も巨大な遠洋船団を運用しなくても、国内農業、河川・運河輸送、沿岸交易、外国船が港まで来る貿易で国を維持できる。そこで鄭和艦隊級の造船・航海技術は、生活や統治に必須ではなくなった。一方、農業、陶磁器、織物、治水、国内商業など、日常的に必要な技術はむしろ発達した。問題は、環境が急に変わったとき、交易船の代わりに艦隊が来る、貿易の主導権が海上輸送を持つ側へ移る、力関係が大きく変わる――その時になって初めて、失った技術の大きさに気づく。これは日本のLNG船にも言える。普通の運搬船で造船所を維持できる間は、高度で特殊なLNG船を造らなくても会社は存続できる。しかしLNG船の建造が必要となったとき、設計者、専用設備、部品会社、建造経験の網が細っていることが弱点になる。技術は「最も進んだ状態」で安定するのではなく、「その時の社会が困らず暮らせる状態」で安定しやすい。2026/8/1

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

前の記事

首藤若菜著「なぜ賃金は上がらないのか」の中で、日本の現場が弱かったから賃金が上がらなかったのではなく、現場があまりに強く、値上げ・設備更新・事業再編をせずとも耐えてしまったため、賃金を上げる必要のある経済構造へ移れなかったと言っている。現場力が経営力の解答となっている。また日本企業の強みである既存工程の中で毎年数%ずつ生産性を上げる「カイゼン」が目標と自己満足となって、現状維持を可能にし、今や日本の時間当たり労働生産性は、2024年時点でOECD加盟38カ国中28位とされている。日本の現場力そのものは、決して悪いものではありません。問題は、経営側がそれを便利に使いすぎたことです。原材料が上がっても、顧客に値上げを求めず現場に吸収させる。人が減っても補充せず、配置転換とカイゼンで回す。設備が古くなっても、熟練者の勘で使い続ける。システムが不便でも、現場がExcelで補助表を作る。その結果、経営者が事業構造を作り替えなくても、現場が会社を存続させてくれる状態が長く続いたのでしょう。日本の現場が弱かったから賃金が上がらなかったのではなく、現場があまりに強く、値上げ・設備更新・事業再編をせずとも耐えてしまったため、賃金を上げる必要のある経済構造へ移れなかった。既存工程の中で毎年数%ずつ生産性を上げるカイゼンは、少額の投資で実行でき、現在の設備、人員、技能体系、取引先をほぼ維持できます。経営者にとっては非常に使いやすい。現場も、自分たちの経験を生かしながら改善できるので、強い抵抗は起きにくい。しかし、これを何十年も続けると、改善の中心が、機械や工程を変えることではなく、同じ人数、同じ設備、同じ時間で、もう少し多く処理することになりやすい。ただ、人口が減り、熟練者が退職し、若い人が低賃金では入らなくなれば、この方式は続きません。今後必要なのは「毎年5%もっと頑張ること」ではなく、この工程を、現在の人員と技術を前提にして残す必要が本当にあるのかという問いでしょう。賃金引き上げは、利益が出た後に行う分配だけではありません。企業に古い工程から脱皮させ、新技術・新設備・新しい人材を導入させる圧力でもあるのだと思います。紙の日報の電子化は、古い仕組みを固定することもある。作業は少し便利になっても、工程全体の付加価値はほとんど変わらない。韓国は、家電産業を温存したというより、家電で稼いでいる間に次の山へ登り始めた。日本は、企業の雇用と既存工程を低賃金とカイゼンで長く維持しながら、次の山への本格的な登山開始が遅れた。2026/8/1

次の記事

携帯電話で起こった何ともおかしな話がまた起こるかもしれない。電信電話は、電話線を全国に張り巡らすという仕組みの上で成り立っていた。ところが、アフリカなどの後進国では、携帯電話で、電話線を張り巡らすという過程無しに、電信電話が可能となった。日本が国内で光回線などで高速化を図っている間に、携帯に様々なアプリを載せて、光と同じ速さの電磁波に乗せて、携帯の使用範囲を急激に拡大していた。固定電話を経ずに携帯電話へ飛んだ「リープフロッグ」。これが介護でも起こり得るのではないか。日本は世界に比べ、高齢社会をいち早く迎え、そのため介護保険などいろいろな老人対策を揃えてきた。そしてそれはそのとき最適化されたものだった。介護の仕組みはそのときはそれしかない方法、人手を頼って対応していた。人手と紙を頼るシステムががっちり出来上がってしまった。だが、今はこれから介護対策が必要な中国やその他のアジア諸国は、電子機器、ロボットを使った介護システムを構築しようとしている。日本は今でも、介護のポイントが低いから人が集まらない、と海外から人を集めようとしているが、中国では2025年の政府活動報告で「智慧養老」の推進が打ち出され、2025~27年には、見守り、移動、移乗、健康管理、リハビリ、会話支援などの介護ロボットを実際の施設で試す事業が進められて、上海では「智慧養老院」や、介護施設とオンライン医療を結ぶ仕組みも広がっている。高齢者は自宅で生活 → センサーが転倒・睡眠・排泄・服薬を監視 → AIが異常だけを人間へ知らせる → 食事や物品は自動配送 → リハビリや歩行を機器が補助人間は入浴、身体介護、診断、緊急時、精神的支援に集中する、これは、「幾人もの介護職員が高齢者の世話に関わる」という日本型とは、最初から違う仕組みだ。日本が高齢化に早く対応したために、その時代には最適だった仕組みが、次の技術革新に対する重荷になり始めた。アジアで次世代型介護システムが完成し、日本がそれを輸入する側になるかもしれない。2026/8/2