「いもづる君」は【坂本竜馬は人脈で日本を変えた】を合言葉にしています。坂本竜馬と言う人は、驚くほど広い行動半径と人脈をもっていたようです。
幕末の日本には電話もFAXも携帯電話やメールもなかったわけですから、通信手段は本人が直接訪問するか、伝言や手紙がほとんどだったのではないでしょうか。
そう考えていくと、幕末に活躍した勤皇の志士たちは、すさまじい行動力と人脈で、その後の日本を近代国家へと導いたと言えるでしょう。
当社でも、幕末歴史好きを豪語する社員が、当時の人間関係を系図にまとめてみました。
作り上げたあと、それまで気がつかなかった人脈の影響範囲が改めて見えてきたと言います。
幕末の日本を動かした大プロデューサと彼の持ち駒たちの活躍が歴史の分岐ポイントに必ず存在していたのが見えてくるそうです。
(大プロデューサとは誰でしょう?そうです、幕府側にも薩長土側にも豊富な人脈をもっていた勝海舟です。
彼の存在が坂本竜馬に活動の足場をあたえ、彼の人脈への絶大な影響力が明治への移行をスムーズ
なものにしました。そして明治政府が実務家の大久保利通を必要としてきたときにその役割を終えました)
勝海舟は『氷川清話』のなかで、函館の商人渋田利右衛門のことを次のように述べています。−−おれもこの男の知遇にはほとほと感激して、いつかはこれに報ゆるだけのことしようと思っていたのに、惜しいことには、渋田はおれが長崎にいる間に死んでしまった。こんな残念なことは生まれてからまだなかったよ。
長崎に行く前、渋田と別れるときに渋田は、「万一、私が死んであなたの頼りになる人がなくなっては」と言って、2
、3人の人を紹介し
てくれたが、その一人は嘉納冶右衛門、これは冶五郎[柔道・講道館の開祖]の親に当たるので、灘の酒屋をしていたのだ。
後に、おれが神戸へいったときには、機械の類はみんなこの人に買ってもらったのだ。今一人は伊勢の竹川竹斎と言う医者で、その地方では
屈指の金持ちで、蔵書も数万巻あった。それから今一人日本橋の浜口、国会議員をしている浜口の本家であった。すべてこれらの人はそれぞれ一種の人物で、さすが渋田の眼識は高いものだと、おれは後で悟った。
これを、「いもづる君」の関係マップで表示すると
となり関係を把握しやすい
(坂本竜馬を中心とした「前後5親等表示」参照)
あなたも、あなたの大事な人や秘蔵っ子にあなたの大事な人脈を伝えませんか。「いもづる君」ならそれが可能です。プロフェッショナル版なら、出会いのきっかけから今日までの経過を細かく記載できます。
正月の贈り物や一緒の作成などにどうぞ。あなたの真底にある気持ちを伝えて下さい。
お手伝い致します。
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