勝海舟について

安政の大獄(あんせいのたいごく)は、1858年(安政5年)から1859年(安政6年)にかけて、江戸幕府が行なった弾圧である。

このとき勝海舟は、長崎の海軍伝習所で、各藩の推薦藩士とともに、オランダ海軍軍人から操船その他を学んでいた。

ここで生徒と先生のパイプ役として2期過ごす。

安政7年(1860年)3月3日、桜田門外の変において大老の井伊直弼が殺害された後、弾圧は収束する。

このとき勝海舟は、日米修好通商条約の批准書を交換する遣米使節団を乗せた咸臨丸の艦長として太平洋上にいた。
このときのアメリカ側の艦長のアメリカのマスコミに対する対応がすばらしい!!

幕末の騒乱混乱期に物騒で危険な江戸や京都から遠く離れた所にいたことになる。

そしてそのとき培った人脈が戊辰戦争収斂に向けた役割の中で生かされていく。

まるで歴史が、必要な人物を、必要な時がく来るまで避難させて守っていたかのようだ。

年代 年齢 当時の行動
1855(安政2年) 33 長崎海軍伝習所に入所
1860(安政7年)旧暦1月20日 アメリカへ向け品川沖出帆咸臨丸の艦長