古代の白村江の戦いとポエニ戦争

白村江の戦い
倭国は昔から朝鮮半島の百済と仲が良く、王族や高官の子弟が数十年も倭国の皇子たちと一緒に育つことも珍しくなかった。
唐新羅連合軍によって滅ぼされた百済国人の祖国奪還の戦いの支援依頼を受けて、中大兄皇子は、救援軍の派遣を決定する。
この間、唐軍との海戦のため、大型船の建造を急いでいた。この時代の海の交通は、瀬戸内海が中心のため、頑強な大型船の建造技術がほとんど無かった。また、乗組員の訓練も必要であった。
663年3月400艘余りの船からなる大船団が編成される。
663年8月17日、唐軍170艘余りが白村江に到着。
唐軍は待っている間、白村江の気候、地形、水流などを調査。
8月27日、倭国の先行部隊が白村江に到着。そのまま唐軍に戦いを挑むが、火矢などで船が焼かれ、全滅。
翌8月28日、倭国の本体の水軍が白村江に到着。
倭国軍が唐軍に戦いを挑むが、鶴が羽を広げた形をした鶴翼の計のように中央に誘い込まれ左右から火矢を浴びせられ、全滅。
これにより、倭国は、大王の足下の飛鳥に、唐からの倭国監視団を受け入れざるをえなくなる。また、飛鳥周辺の2千5百人余りの百済人を東国へ移住させざるをえなくなる。飛鳥から近江京(滋賀県大津市)へ都を移したのも、唐との戦いへの備えて、防御しやすい地形というのが理由。

ポエニ戦争

古代ローマとカルタゴとの戦争。
紀元前3世紀、長靴の形をしたイタリア半島のつま先に位置するシチリア島は、ギリシアの植民都市とカルタゴの植民都市があった。
この時期、カルタゴは地中海全域を支配下に置いた海洋国家だった。
紀元前264年、シラクサがカルタゴと結んでメッシーナを攻め、メッシーナは同盟関係にあったローマに助けを求めた。
海軍を持たないローマはカルタゴとの衝突を避けたかったが、援軍を送り、シラクサを撃破し、シラクサを同盟国にした。カルタゴは数万の兵をシチリア島に派遣。これによりローマとカルタゴとの第1次ポエニ戦争が始まる。
カルタゴとの戦争が避けられないとなったローマは、急遽カルタゴ船と同じ3層の大型船の建造を始める。
ここからの対応が倭国と違う。
当時のローマ軍は、相次ぐ戦役で陸戦には強かったが、海上での戦いは経験していない。では、海上を陸上に替えればいいという発想で、船の前方に柱を立て、先に鳶口ような刃物が付いた梯子(「カラス」と呼ばれた桟橋)をくくりつけ、相手の船にぶつかるとそれを倒し、歩兵が相手の船に乗り込みやすくした。少し足場が揺れる陸上に変えたのである。
これによって数度にわたる海戦は、すべてローマが勝利する。そして地中海の制海権を入手する。

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