宇和島騒動ーー寛永5(1665)年の3畳分の山模型
しょっちゅう宇和島に行っている人も知らなかったこと。
ーー 司馬遼太郎『街道をゆく 南伊予・西土佐の道』より
寛永5(1665)年秋の完工とともに、
目黒村の百姓たちは6個に分解した部分を背負って300里むこうの江戸へ旅立った。
遍路姿で行ったとも乞食姿で行ったともいわれているが、
宇和島藩に知られれば暗殺されるという懸念よりも、
経済的な理由でそうしたのに違いない。
ただでさえ貧しい目黒村の百姓たちが、訴訟や模型作製にずいぶん出費している。
乞食になって江戸へゆくしか仕方がなかったのではないか。
この精巧な模型は、幕府の寺社奉行たちの前で組み立てられた。
被告の次郎丸村はおなじ山河を絵図にして幕府に提出しているが、
幕吏の目をおどろかせたのはこの模型のほうだったにちがいない。
この模型が発見?されたのは昭和39年ごろで、住職さんが、
ーー寺にこんなものがあるんだが。
といって町役場に報らせたのが最初で、
町は驚き、とりあえず町指定の文化財にした。
この模型の正確さは相当なものらしく、昭和40年代に営林署が、
植林計画や伐採計画をたてるときにこれを使ったといわれる。