時間の問題ーそれは、まず鉄道の発達から始まった

1883年10月11日、シカゴで初の共通時間協議会が招集された。
その任務は、国家全体を蔓のように広がり、大陸横断鉄道によって新たに結ばれた、まちまちの時間帯を整理することだった。
時間の改革がその日の課題だった。

アメリカやヨーロッパでは、都市や村を結ぶ鉄道の発達もまた、人間による距離と時間の経験を変えさせた。
ニューヨークとフィラデルフィアは160km離れている。
1770年代、その距離を馬車で最速で進んでも2日かかった。
しかし1880年代には、定期的な列車運行によりわずか3時間半に短縮された。
離れた都市が短時間で結ばれたことにより、旅行者は時間基準に関する新しい厄介な問題に直面させられた。
大都市はそれぞれ独自の時間基準を持っていた。
旅行者はどの時間に縛られるのか?
各都市の時計は、地元の大学の天文台で働く天文学者が提供する、その地方に時間基準に合わせられていた。
したがって、ニューヨークは正午でも、フィラデルフィアでは正午ではなかった。

1880年代には、既に地方時はパッチワークのような分裂状態にあった。
その混乱状態に対処するために、アメリカの鉄道各社は付け刃的な取り決めを作った。
列車内では、路線上の特定の大都市に時計を合わせる。
そうすると、列車内では午後一時だが、通過している町では正午ということもありうる。
1883年には、ニューヨーク時間に従う路線が少なくとも47、シカゴ時間をとるのが36路線、フィラデルフィアに時計を合わせる路線が33あった。
時は混乱していた。

フランスではもっと厄介で、パリがすべての鉄道路線の基準だった。
首都から1000km近くは慣れたニースにいる旅行者は、駅に近づくにつれて3つの異なる時間を経験した。
初めは街なかの時計が示す地方時、次に駅の待合室がしますパリ時間、最後にプラットフォームの時間だ。
プラットフォームの時間は、混乱する旅行者に、列車に間に合うように余裕を与えるため、パリ時間と数分ずらして設定されていた。

合理的な時間を求める声が、世界中で沸き上がった。
大陸全体に支配が及ぶアメリカが、その流れをけん引した。
問題の根源は、天空のリズムに基づいて定められた地方時と、移動の速さで地球に勝るようになった旅行者の時間との違いにあった。

            出典:『時間と宇宙のすべて』(アダム・フランク、早川書房)