電信という仕組みの構築ーヘンリーとモーリスそして特許
ジョセフ・ヘンリーは、ここプリンストンでも、オールバニにいたころと変わらず、鷹揚であった。
学生たちにも慕われいた。この頃の彼は、プリンストン大学の構内に、1マイル以上にわたって電信ケーブルを引いており、
学生たちは、これに関連する作業でいつもヘンリーを手伝っていた。
ヘンリーは、こと特許に関しては、特許などというものがあるからヨーロッパは発展が遅れているのだと常々批判を口にしていた。
1838年(日本は天保9年、大阪で緒方洪庵が適々斎塾を開く)の春と思われる頃、彼はやってきたモーリスに対して、自分が作ったバッテリー、電磁石、そして導線を巻いたものからなる電信システムがどのように機能するかを喜んで教えた。
ヘンリーは建国間もなく、急速に成長を遂げているアメリカにおいては、善良な市民は皆、自分が得た知識を進んで互いに分かち合うべきだと考えていたのだ。
プリンストンを後にしたモーリスは、少なくとも一人に善良な市民にとって、どうするのかが最善かを理解していた。
彼はこれまでも、可能なものは何でも特許を取りたいと考えてきた。まだ芸術家として身を立てるつもりでいたころにも、とても実用になりそうも無い大理石切削装置で奮闘したことがあった。
そして、彼は、ヘンリーの研究の中から拾い上げた情報や、ヨーロッパの研究者たちの報告書を読んで得た知識をまとめて、自分の名前で特許を取得したのである。
そののち、モーリスは北米の資産家の一人として名を連ねるようになった。
モーリスの発明の大部分が、ほかの人たちから盗んだアイデアに基づいていたとしても、それが何の問題だったろうか?
イギリスやドイツではすでに電信は実用化されていたし、アメリカでも、ほかの発明家たちが実用に一歩手前まで到達していた。
モーリスがそうしなかったとしても、誰かほかの者が、まもなくアメリカで電信を実用化したであろうことは疑いもない。
神の正義が働いて、モーリスには地上の富を手にさせないことにはならなかったが、天罰は別な形で下った。
ジョセフ・ヘンリーは満ち足りた生涯を送り、学生たちと打ち解けて過ごし、同僚たちからは尊敬された。
モーリスは、言い訳に嘘を重ねて来たために、その後の30年間の大半を、無理やり自分の名前で取得した特許を守るための訴訟にかかりきりになって過ごすはめになった。
出典:『電気革命 モーリス、ファラデー、チューリング』(D・ボダニス、新潮文庫)