才気活発な若き成功者の限界(『三国志』孫権)

宮城谷昌光氏の『三国志』第6巻より

呉の孫権は、劉備と同盟するとはいわず、
「劉備の使者に会ってみよう」
と、いい、会見の席をつくらせた。 
 諸葛亮が呉の君臣に知られるようになるのはここからである。諸葛亮が諸葛きんの弟であるという予備知識を得ていた孫権であるが、劉備にとってもっとも重要な臣が28歳で無官にすぎないことに、軽い侮蔑をおぼえた。
  劉備とは、その程度の武将か。
 このとき孫権は27歳であるが、すでに大人の風格がある。名士好きという性癖をもたず、無名の賢人を採用する眼力と胆力をあわせもっているので、諸葛亮をみくだしたわけではなく、21歳も年齢が上である劉備について、ずいぶん歳月をむだづかいしたように感じたことはいなめない。その歳になっても寸地を保持しえない劉備に限界をみたのは当然であろう。
 諸葛亮が孫権に仕えずに劉備に仕えた真意については、まえにふれたことがあるが、思想の底辺には革命あるいは改革の意識が濃厚にある。その意識の眼で孫権を遠望してみて、
  孫権には天下の大改革はできない。
 と、みきわめたからこそ、兄のいる呉にゆかなかったのである。そういう諸葛亮の志望の巨きさを知っているのは、劉備だけであり、保有する意欲にとらわれて滅亡しなかった劉備という思想的奇形の人のみが諸葛亮を理解したといえる。

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